概要

三顧の礼とは、人材を得るために何度も誠意を尽くして訪問することを指す故事成語です。47歳の劉備が、27歳の若き天才・諸葛亮を軍師として迎えるため、三度も隆中の草廬を訪れたこの出来事は、理想の君臣関係の象徴として後世に語り継がれています。

起源:建安12年(207年)冬から建安13年(208年)春、湖北省襄陽市隆中

「士は己を知る者の為に死す」- この故事は、真の人材登用には地位や年齢を超えた誠意が必要であることを示し、中国の人材観・君臣観に深い影響を与えました。また、この出会いから生まれた「隆中対」は、後の三国鼎立を予見した歴史的戦略論として評価されています。

主要な場面

1. 劉備 vs 諸葛亮

状況:建安12年(207年)、新野に寄寓していた劉備は、徐庶の推薦により諸葛亮の存在を知る

展開:第一訪:諸葛亮不在。第二訪:再び不在、弟の諸葛均に会う。第三訪:大雪の中、ついに諸葛亮と対面。

結果:諸葛亮は「隆中対」で天下三分の計を説き、劉備の軍師となる。以後27年間、蜀漢の大黒柱として活躍。

史実

先主遂詣亮,凡三往,乃見

(先主(劉備)はついに諸葛亮を訪ね、およそ三度往って、ようやく会えた)

― 陳寿『三国志』諸葛亮伝

2. 諸葛亮 vs 劉備

状況:隆中対での天下分析と戦略提示

展開:荊州・益州を基盤とし、孫権と同盟して曹操に対抗する戦略を詳細に説明。

結果:劉備は「孤之有孔明,猶魚之有水也」(私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものだ)と喜んだ。

史実

將軍既帝室之胄,信義著於四海,總攬英雄,思賢如渴,若跨有荊、益,保其巖阻,西和諸戎,南撫夷越,外結好孫權,內修政理

(将軍は帝室の末裔で、信義は四海に著れ、英雄を総攬し、賢を思うこと渇するが如し。もし荊州・益州を領有し、その険阻を保ち、西は諸戎と和し、南は夷越を撫で、外は孫権と好を結び、内は政理を修めれば…)

― 陳寿『三国志』諸葛亮伝

3. 徐庶 vs 劉備

状況:諸葛亮を推薦する場面

展開:「臥龍・鳳雛を一人でも得れば天下を定められる」と進言。

結果:劉備は諸葛亮を訪ねる決意をする。徐庶自身は母を人質に取られ、やむなく曹操の元へ。

史実

儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑。此間自有臥龍、鳳雛

(儒生や俗士がどうして時務を識ろうか?時務を識る者は俊傑にあり。この地には臥龍と鳳雛がいる)

― 『襄陽記』(裴松之注『三国志』)

諸葛亮の青年時代 - 臥龍と呼ばれた天才

諸葛亮の出自と修学時代

諸葛亮(181-234)は琅邪郡陽都県(現在の山東省)の出身。幼くして両親を失い、叔父の諸葛玄に養われました。荊州に移住後、襄陽の名士・黄承彦の娘を娶り、隆中で晴耕雨読の生活を送っていました。

年齢出来事場所
3歳父・諸葛珪が死去琅邪郡
8歳母が死去、叔父・諸葛玄に引き取られる琅邪郡
14歳叔父と共に荊州へ移住荊州
16歳叔父死去、隆中で自給自足の生活開始隆中
20歳黄承彦の娘と結婚襄陽
27歳劉備の三顧の礼を受ける隆中

「臥龍」の由来

史実

孔明臥龍也,士元鳳雛也

(孔明は臥龍なり、士元は鳳雛なり)

― 司馬徽(水鏡先生)

「臥龍」とは、まだ天に昇らず地に臥している龍、つまり時を得ていない英雄を意味します。諸葛亮は自ら管仲・楽毅に比していましたが、時人はこれを認めず、ただ崔州平、徐庶らの親友のみがその非凡さを知っていました。

隆中対 - 天下三分の計の全貌

隆中対の戦略分析

段階戦略具体的施策
第一段階基盤確立荊州を奪い、益州を併呑して基盤とする
第二段階同盟構築東の孫権と同盟し、曹操に対抗する
第三段階内政充実西は諸戎と和し、南は夷越を撫でる
第四段階北伐開始天下に変があれば、一軍は宛・洛へ、主力は秦川へ
史実

誠如是,則霸業可成,漢室可興矣

(まことにかくの如くば、すなわち覇業成るべく、漢室興るべし)

― 陳寿『三国志』諸葛亮伝

隆中対の先見性

207年の時点で、諸葛亮は後の歴史展開を正確に予測していました:

予測実際の歴史的中度
曹操は一時に滅ぼせない曹操は220年まで生存、魏を建国完全的中
孫権は援助可能208年赤壁で同盟成立完全的中
荊州は必取の地劉備は荊州南部を獲得部分的中
益州は天府の国214年に劉備が益州を平定完全的中
天下三分の形勢220年代に魏・呉・蜀の三国鼎立完全的中

水魚の交わり - 理想の君臣関係

「水魚の交わり」の意味

史実

孤之有孔明,猶魚之有水也

(私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものだ)

― 陳寿『三国志』諸葛亮伝

劉備のこの言葉は、諸葛亮なくして自分の大業は成し遂げられないという、絶対的な信頼を表現しています。この関係は死ぬまで変わることがありませんでした。

関羽・張飛の反発と解決

当初、関羽と張飛は若輩の諸葛亮を重用することに不満を持っていました。しかし、劉備は「水魚の交わり」の譬えで二人を説得し、諸葛亮自身も実績を示すことで、次第に信頼を勝ち取っていきました。

白帝城の託孤

史実

君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取

(君の才は曹丕の十倍、必ず国を安んじ、ついに大事を定められる。もし嗣子が輔けるに足れば、これを輔けよ。もしその才なくば、君自ら取れ)

― 陳寿『三国志』諸葛亮伝

223年、白帝城で臨終の劉備は、諸葛亮に後事を託しました。この言葉には賛否両論ありますが、16年間培われた絶対的信頼関係の証といえるでしょう。

後世への影響 - 故事成語から人材論まで

故事成語としての定着

成語意味由来
三顧の礼礼を尽くして人材を求める劉備の三度の訪問
水魚の交わり切っても切れない親密な関係劉備の言葉
如魚得水理想的な環境や関係を得る同上
茅廬を三顧す賢者を訪ねて教えを請う草廬への訪問

日本への影響

日本では、豊臣秀吉が竹中半兵衛を、徳川家康が天海僧正を登用する際に、三顧の礼の故事を意識したと言われています。現代でも、優秀な人材をスカウトする際の理想的な姿勢として引用されています。

演義での脚色

要素正史演義
訪問時期記載なし冬→春の詳細な描写
諸葛亮の態度記載なしわざと不在を装う
関羽・張飛不満を持つ激しく反発、諸葛亮を侮辱
崔州平・石広元友人として言及劉備と哲学談義
黄承彦岳父として記載劉備を試す場面

『三国志演義』では、三顧の礼をより劇的に描くため、多くの創作が加えられました。特に、雪の中で待つ劉備の姿や、昼寝から覚めない諸葛亮を待ち続ける場面は、読者の心を打つ名場面となっています。

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