概要

徐州大虐殺とは、194年から195年にかけて曹操が徐州で行った大規模な報復的虐殺事件。父・曹嵩の死への報復として実行され、正史『三国志』魏書武帝紀に「凡殺男女数十万口」と記録される。

起源:193年の曹嵩殺害事件が直接的な原因。曹嵩は徐州を通過中、陶謙の配下・張闓に財産を狙われて殺害された。

三国時代最大規模の虐殺事件として、曹操の冷酷さを象徴する事件。後世の文学作品でも「治世の能臣、乱世の奸雄」という曹操評価の根拠として描かれ続けている。

主要な場面

1. 曹操 vs 徐州住民

状況:194年春、曹操は父の仇を討つため10万の軍を率いて徐州侵攻を開始

展開:「堅壁清野」戦術を採用し、城市を包囲して降伏しない場合は住民を皆殺しにする恐怖政策を実行。彭城など主要都市を攻略し、住民を虐殺した。

結果:正史によれば「数十万人」が犠牲となり、徐州の人口は激減。農業生産も壊滅的打撃を受けた。

正史『三国志』魏書武帝紀に明確に記録されている史実

史実

凡殺男女数十万口

(男女数十万人を殺害した)

― 陳寿『三国志』魏書武帝紀

2. 呂布 vs 曹操の本拠地

状況:194年夏、曹操が徐州攻撃中に留守となった兗州を狙う

展開:陳宮らと結託して兗州に侵入し、曹操の本拠地を襲撃。濮陽を占拠し、曹操軍の背後を脅かす。

結果:曹操は徐州攻撃を中断して兗州に戻ることを余儀なくされ、第一次徐州侵攻は終結。

正史に記録される史実。呂布の裏切りが徐州の惨劇を一時的に終わらせた。

3. 劉備 vs 曹操軍

状況:195年、陶謙の後継として徐州を統治し、曹操の第二次侵攻に対峙

展開:徐州の民衆と協力して曹操軍に抵抗。持久戦を展開し、曹操軍の消耗を図る。

結果:最終的に曹操と和睦に至り、第二次徐州侵攻は終結。劉備は徐州の統治者として認められた。

劉備の徐州統治は正史に記録されているが、和睦の詳細は演義による脚色が含まれる。

後漢末期の群雄割拠と徐州の戦略的価値

徐州の地理的・戦略的重要性

徐州は現在の江蘇省北部に位置し、長江下流域と華北平原を結ぶ交通の要衝でした。豊かな農業地帯でもあり、人口密度も高く、三国時代の群雄にとって重要な拠点でした。

時期統治者主要な出来事
189年陶謙徐州太守として就任、善政を敷く
193年陶謙曹嵩殺害事件発生、曹操の恨みを買う
194年陶謙曹操の第一次侵攻を受ける
194年劉備陶謙の遺言により徐州を継承
195年劉備曹操の第二次侵攻と和睦

虐殺の実態と規模

正史に記録された虐殺の規模

正史『三国志』魏書武帝紀には「凡殺男女数十万口」と明記されており、これは中国史上でも最大級の虐殺事件の一つとされています。

太祖征陶謙,下取慮、雎陵、夏丘,皆屠之。凡殺男女數十萬口,雞犬無餘,泗水為之不流。

(太祖(曹操)が陶謙を征討し、慮・雎陵・夏丘を攻め落とし、皆これを屠った。男女数十万人を殺害し、鶏犬も残らず、泗水はそのために流れを止めた。)

― 陳寿『三国志』魏書武帝紀

曹操の心理状態と政治的計算

復讐心と政治的威嚇の両面

徐州大虐殺は単なる感情的な復讐ではなく、他の群雄への威嚇効果も狙った政治的行動でした。曹操は恐怖政治により敵対勢力の戦意を削ぐ戦略を採用していました。

  • 父親殺害への個人的復讐心
  • 他の群雄への威嚇効果
  • 兵士の士気向上(報復の大義名分)
  • 徐州の完全な無力化

後世への影響と評価

曹操評価への決定的影響

この事件は曹操の人物評価に決定的な影響を与えました。許劭の「治世の能臣、乱世の奸雄」という評言は、まさにこうした冷酷さを含んだ評価でした。

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