概要
連環の計とは、複数の計略を鎖のように連結させて実行する高度な戦術です。一つの計略では打破できない強大な敵も、巧妙に連鎖する罠によって内部から崩壊させることができます。まさに『智謀が武力を凌駕する』三国志の醍醐味を体現した計略です。
起源:兵法三十六計 第三十五計(南北朝時代成立)
「将多く兵衆ければ、以て敵すべからず。其れをして自ら累れしめ、以て其の勢いを殺ぐ」- 正面から戦えない強大な敵に対し、複数の計略を連動させて内部崩壊へと導く。三国志では董卓暗殺と赤壁の戦いという二大場面で華々しく使われました。
歴史上の実例
1. 王允 vs 董卓・呂布
状況:暴君・董卓を排除するため、養女の貂蝉を使って義父子関係にある董卓と呂布の間を引き裂く
展開:第一計:貂蝉を呂布に会わせて恋心を抱かせ、結婚の約束をする。第二計:同じ貂蝉を董卓に献上し独占させる。第三計:貂蝉が呂布に董卓の暴行を訴え、呂布の怒りを煽る。
結果:初平3年(192年)4月23日、呂布が董卓を未央殿で刺殺。暴政が終結。
演義司徒王允謂呂布曰:『將軍若扶漢室,乃忠臣也,青史留名,萬古不朽;將軍若助董卓,乃反臣也,史官下筆,罪惡千載。』
(司徒王允は呂布に言った:『将軍が漢室を扶ければ忠臣となり、青史に名を留め万古不朽。将軍が董卓を助ければ反臣となり、史官の筆により罪悪は千載に及ぶ』)
― 羅貫中『三国志演義』第八回
2. 周瑜・黄蓋 vs 曹操軍
状況:建安13年(208年)、赤壁で曹操の大軍(号称百万、実際は20-30万)に対抗
展開:第一計:黄蓋が周瑜に鞭打たれる苦肉計を実行。第二計:黄蓋が曹操に偽装投降。第三計:東南の風を待って火船で突撃。
結果:曹操軍の壊滅的敗北。華容道での逃走。天下三分の基礎が確立。
史実時東南風急,蓋以十艦最著前,中江舉帆,蓋舉火白諸校,使眾兵齊聲大叫曰:降焉!操軍人皆出營立觀。去北軍二里餘,同時發火,火烈風猛,船往如箭,燒盡北船,延及岸邊營落
(東南の風が急に吹き、黄蓋は十艦を最前列に進め、江の中で帆を上げ、火を挙げて諸将に合図し、兵士たちに一斉に「降伏する!」と叫ばせた。曹操軍の兵は皆陣営から出て見物した。北軍から二里余りのところで同時に火を放つと、火は激しく風は猛烈で、船は矢のように進み、北の船を焼き尽くし、岸辺の陣営にまで延焼した)
― 陳寿『三国志』周瑜伝
3. 司馬懿 vs 諸葛亮
状況:諸葛亮の北伐に対して消耗戦を仕掛ける
展開:第一計:堅守して決戦を避ける。第二計:諸葛亮の挑発を完全無視。第三計:補給線を脅かして撤退を強制。
結果:建興12年(234年)、諸葛亮は五丈原で病没。蜀漢の北伐は失敗に終わる。
史実亮屯五丈原,與司馬宣王對於渭南。亮每患糧不繼,使己志不申,是以分兵屯田,為久駐之基
(諸葛亮は五丈原に駐屯し、司馬懿と渭水の南で対峙した。諸葛亮は常に兵糧が続かないことを患い、己の志を申せないため、兵を分けて屯田し、長期駐屯の基礎とした)
― 陳寿『三国志』諸葛亮伝
貂蝉伝説 - 中国四大美女の謎
貂蝉は実在したのか?
貂蝉(ちょうせん)は、西施、王昭君、楊貴妃と並ぶ「中国四大美女」の一人でありながら、唯一の架空の人物です。しかし、その存在感は他の三人を凌ぐほど。なぜでしょうか?
史実呂布與董卓侍婢私通,恐事發覺,心不自安
(呂布は董卓の侍女と密通し、事が発覚することを恐れ、心が安まらなかった)
― 陳寿『三国志』呂布伝
正史『三国志』には「董卓の侍女」としか記されていません。この名もなき女性が、羅貫中の手によって絶世の美女・貂蝉として生まれ変わったのです。
貂蝉の名前の由来
「貂蝉」とは本来、漢代の高官が被る冠の装飾品(貂の尾と蝉の飾り)を指します。元代の戯曲『連環計』では、彼女の本名は「任紅昌」とされ、宮中で貂蝉冠の管理を任されていたことから、この名で呼ばれるようになったとされています。
貂蝉のその後 - 三つの結末
説 | 内容 | 出典 |
---|---|---|
関羽に斬られる | 呂布死後、関羽の前に連れてこられた貂蝉。「この女のために英雄たちが殺し合った」と判断した関羽は、青龍偃月刀で一刀のもとに斬り捨てた。 | 民間伝承 |
尼になる | 関羽は貂蝉を不憫に思い、出家させた。貂蝉は尼となり、自らの数奇な運命を書き残した。 | 『三国志平話』 |
趙雲と結婚 | 曹操に捕らえられそうになった貂蝉を趙雲が救出。その後二人は結ばれ、平穏な余生を送った。 | 民間伝承 |
四大美女の美しさは「沈魚落雁、閉月羞花」と表現されます。貂蝉の美しさは「閉月」と称され、その美貌に月さえも雲に隠れたといいます。
赤壁の戦い - 史実と演義の比較
正史と演義の記述比較
項目 | 正史『三国志』 | 『三国志演義』 |
---|---|---|
曹操軍の兵数 | 約20-30万 | 号称百万(実際は80万) |
敗因 | 疫病の流行 | 連環船への火攻め |
連環船 | 記述なし | 龐統の進言で船を鎖で繋ぐ |
龐統の参戦 | 参戦していない | 曹操に偽りの進言 |
火攻め | 黄蓋が実行(史実) | 黄蓋が偽装投降して実行 |
東南の風 | 記述なし | 諸葛亮が祈祷で呼ぶ |
史実公軍吏士多疫病,初一交戰,公軍不利,引次江北
(曹操軍の兵士は多く疫病にかかり、初戦で不利となり、江北に退いた)
― 『三国志』武帝紀
正史では曹操軍の敗因は疫病とされていますが、火攻めは史実として記録されています。
史実蓋乃取蒙衝鬥艦數十艘,實以薪草,膏油灌其中,裹以帷幕,上建牙旗
(黄蓋は蒙衝と闘艦数十艘を取り、薪と草を詰め、油を注ぎ、帳で覆い、旗を立てた)
― 『三国志』周瑜伝
連環船の虚実
演義龐統進曰:『江北戰船,為風浪所阻,兵士不慣乘舟,多生疾病。若以鐵環連鎖,上鋪闊板,則人可渡,馬可走,退自如矣。』
(龐統が進み出て言った:『江北の戦船は風浪に阻まれ、兵士は舟に慣れず多く病に倒れています。もし鉄の鎖で船を繋ぎ、上に広い板を敷けば、人は渡れ馬は走れ、進退自在となりましょう』)
― 羅貫中『三国志演義』第四十七回
実際には龐統は赤壁の戦いには参戦しておらず、連環船の話は演義の創作です。しかし、この創作により赤壁の戦いはより劇的な物語となりました。
王允の生涯と悲劇的な最期
歴史上の王允(137年-192年)
王允は実在の人物で、後漢末の司徒(三公の一つ)でした。董卓暗殺は史実ですが、貂蝉の美女連環の計は演義の創作です。
史実布與卓侍婢私通,恐事發覺,心不自安
(呂布は董卓の侍女と密通し、事が発覚することを恐れ、心が安まらなかった)
― 陳寿『三国志』呂布伝
正史では、呂布と董卓の侍女の関係が原因の一つとなっていますが、王允が美女を使って計略を仕掛けたという記述はありません。
董卓暗殺後の失策
史実允以為董卓已誅,天下當定,遂不聽朝臣之諫
(王允は董卓を誅したので天下は定まると考え、朝臣の諫めを聞かなかった)
― 『後漢書』王允伝
董卓を殺した王允は、意外にも独裁的な振る舞いを始めます。董卓の部下たちに恩赦を与えず、「逆賊に仕えた者は全員処刑」と宣言。これが致命的な失策となりました。
王允の最期 - わずか2ヶ月での転落
日付 | 出来事 |
---|---|
192年4月23日 | 呂布が董卓を暗殺 |
192年5月 | 李傕・郭汜が長安に進軍 |
192年6月1日 | 李傕らが長安を陥落 |
192年6月2日 | 王允、一族もろとも処刑 |
連環の計の成功者でありながら、その後の処理を誤った王允。彼の失敗は、勝利後の寛容さの重要性を教えてくれます。
連環の計の心理学的分析
三段階の心理操作
段階 | 心理的効果 | 三国志での例 |
---|---|---|
第一の鎖:欲望の刺激 | 理性的判断を鈍らせる | 呂布への美女の提示、曹操への船酔い解消案 |
第二の鎖:認知的不協和 | 矛盾する状況で混乱させる | 義父への忠誠vs愛情、利便性vsリスク |
第三の鎖:決断の強制 | 時間的・感情的圧力で誤った判断へ | 貂蝉の涙、迫る決戦の時 |
演義用兵之道,攻心為上,攻城為下;心戰為上,兵戰為下
(兵を用いる道は、心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とす。心戦を上とし、兵戦を下とす)
― 諸葛亮(三国志演義)
連環の計は、まさに「攻心」の極致。武力ではなく心理戦で敵を打ち破る、三国志の真髄を体現した計略なのです。