概要

空城の計とは、圧倒的な劣勢に立たされた時、あえて無防備を装い、敵に深謀遠慮があると錯覚させて撤退に追い込む心理戦術です。相手の慎重さや疑り深さを逆手に取った、弱者の智謀の極致とされています。

起源:兵法三十六計 第三十二計(南北朝時代成立)

「虛者虛之,疑中生疑」- 虚なる者を虚とし、疑いの中に疑いを生む。最大の弱点を最大の武器に変える、孔明の智謀を象徴する計略として後世に語り継がれています。

歴史上の実例

1. 諸葛亮 vs 司馬懿

状況:建興6年(228年)街亭の戦いで馬謖が敗れ、西城に孤立無援となった状況

展開:第一計:城の守備兵をすべて隠し、城門を大きく開放。第二計:自ら城楼に上がり、羽扇を持って琴を弾く。第三計:数名の童子に掃除をさせ、平然とした態度を演出。

結果:司馬懿は「孔明は慎重な人物。必ず伏兵がいる」と判断し、全軍を撤退させる。諸葛亮は危機を脱し、蜀軍の退却時間を稼ぐ。

演義

亮乃披鶴氅,戴綸巾,引二小童攜琴一張,於城上敵樓前,憑欄而坐,焚香操琴

(諸葛亮は鶴の羽織を着て綸巾を戴き、二人の小童に琴一張を持たせて城上の敵楼の前に行き、欄干によりかかって座り、香を焚いて琴を奏でた)

― 羅貫中『三国志演義』第九十五回

空城の計の史実性 - 演義と正史の違い

正史『三国志』の記録

実は、正史『三国志』には空城の計の記述はありません。この有名な逸話は『三国志演義』の創作とされています。

史実

亮屯於陽平,遣魏延諸軍並兵東下,自率諸軍攻祁山

(諸葛亮は陽平に駐屯し、魏延らの軍を派遣して東下させ、自ら諸軍を率いて祁山を攻めた)

― 陳寿『三国志』諸葛亮伝

正史では街亭の戦い後、諸葛亮は速やかに軍を撤退させたとあり、西城での対峙の記述はありません。

なぜこの逸話が生まれたのか

要因背景影響
諸葛亮への憧憬蜀漢滅亡後の民衆の思い智謀で強敵を退ける理想の軍師像
司馬懿の慎重さ史実でも消極的戦術を多用「疑り深い性格」が物語の真実味を増す
弱者の智恵への共感圧倒的劣勢を覆す痛快さ民衆の心に深く響く物語性

歴史上の類似戦術

中国史上の空城戦術

時代人物状況結果
春秋時代晏嬰斉の都臨淄が敵に包囲城門を開放し、敵軍が疑って撤退
戦国時代田単即墨城の守備火牛の計と組み合わせて大勝利
隋代韋孝寛玉壁城の攻防高歓の大軍を撤退させる

兵者,詭道也

(兵とは詭道なり)

― 孫子『兵法』始計篇

空城の計は「詭道」の究極の形。正攻法では勝てない状況で、相手の心理を読み切って勝利を得る戦術なのです。

空城の計の心理学的分析

成功の心理的条件

条件心理的効果諸葛亮の場合
実行者の威名「この人なら何か策があるはず」「臥龍」の名声、これまでの戦績
相手の慎重さリスクを過大評価する傾向司馬懿の堅実な戦術思想
状況の異常性「普通ではありえない」という疑念城門開放という非常識な行動
演技の自然さ作為を感じさせない態度琴を弾く余裕ある姿

現代への応用

空城の計の教訓は現代でも有効です。交渉術では「あえて弱みを見せる」ことで相手の警戒を解き、ビジネスでは「余裕ある態度」で相手に不安を与える。ただし、実行には相当な度胸と相手への深い理解が必要です。

空城の計の文化的影響

中国文化への浸透

空城の計は中国文化に深く根ざし、「智者は力に勝る」という価値観を体現しています。京劇、小説、映画と様々な芸術形式で再話され続けています。

智者千慮,必有一失;愚者千慮,必有一得

(智者の千の慮りにも必ず一つの失あり、愚者の千の慮りにも必ず一つの得あり)

― 中国古典の格言

しかし空城の計は、智者の「千慮の一得」。絶体絶命の状況でこそ発揮される、究極の智謀なのです。

日本での受容

江戸時代に日本に伝わった空城の計は、「虚実皮膜」という美学と結びつき、能楽や歌舞伎でも演じられました。現代でも「肝の据わった行動」の代名詞として使われています。

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